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深川萩 坂倉新兵衛窯

深川萩 ─ 御用窯のながれ

深川萩と三之瀬焼物所

萩焼は、豊臣秀吉による朝鮮出兵、文禄・慶長の役(1592〜98年)の折、毛利輝元公が連れ帰った朝鮮李朝の陶工、李勺光・李敬が、輝元公の命により萩城下松本村に窯を築いたことに始まります。

その約半世紀の後、李勺光の子・山村新兵衛光政(正庵、作之允)の高弟である蔵崎五郎左衛門・赤川助左衛門・助右衛門の一統らが藩の許しを得て、大津郡深川村三之瀬に大寧寺の山林を薪山としてあてがわれ、移り住んで窯を築きました。その後、明暦三年(1657年)には山村新兵衛光政の子・山村平四郎光俊も移住して「三之瀬焼物所惣都合〆」を命じられ、藩の御用窯として「三之瀬焼物所」が創業。これが深川萩──萩焼深川窯の始まりといわれています。

三之瀬焼物所は開窯時から、御用窯でありながら自分焼(自家営業)を認められた、半官半民の窯でした。

対岸から望む坂倉新兵衛窯

代々のあゆみ

坂倉新兵衛窯は、深川萩の窯元として、代々窯の火を繋いでまいりました。御用窯から庄屋支配の窯となり、明治の廃藩置県を経て、時代の節目に窯を引き継いだ十二代新兵衛は、茶道に深く傾倒し、伝来の古萩の名品をもとに、現代へと繋がる茶陶萩の復興に大きな足跡を残しました。人間国宝制度の前身にあたる「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に萩焼として初めて認定され、人間国宝への推挙・申請がなされるさなか、惜しくも亡くなりましたが、萩焼中興の祖として近代萩焼の礎となりました。

十三代新兵衛は、修業中に第二次世界大戦に徴兵され、戦死。のちに十三代新兵衛の名を追贈されました。

十四代新兵衛は、兄・十三代の戦死により呼び戻され、十二代の没後に十四代新兵衛を襲名。58歳で早逝しましたが、優れた茶陶を数多く残しました。

十五代新兵衛は、東京藝術大学彫刻科を卒業、同大学院陶芸専攻を修了ののち、十四代の早逝により25歳で工房を受け継ぎ、29歳の若さで十五代新兵衛を襲名。以来45年にわたり代を守り、令和6年(2024年)の代替わりに際して「坂倉一渓」と改号。現在も鋭意制作を続けています。

令和6年5月、襲名の儀を執り行い当代となった十六代新兵衛は、萩焼の伝統技法を受け継ぎながら、深川の土を用いた新たな深川萩の様式を確立。茶陶を中心に、造形的なオブジェ作品など、十六代新兵衛としての新たな領域にて作品発表を続けています。

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